日本の家父長的家制度について-農村における 「家」 の諸関係を中心に
I. はじめに
II. 日本の家父長的家制度の歴史
近世になって幕府統制上の便利や儒教が武士階層へ徹底的に浸透する中で、近世の武士階層で定着したと思われる 家父長的家制度が批判対象になる理由の予想
1. 明治政府は色々な制度に関してはヨーロッパの先進的な法律を受け入れて、近代国家を作りあげにも関わらず、家制度は封建性の 「家父長的家制度」 をとったこと 2. 明治政府は近代武士階層の封建的な家父長的家を制度化することで、それを全国民に押し付けたこと
1. 住居地によって戸籍を再編成し、家族の地位順は戸主を一番に、下は儒教的な順番で尊属、直系、男性を上に、卑属、傍系、女性を下という親族集団の配列にしたのである
これは戸主優位の確立と戸主が家族員に対する統制を可能にした根拠を提供した同時に、家の中の秩序と各家族員の地位を明確にしたものであると思われる
2. 家族員を統制できる優位に立つ戸主は家父長であることを決めた
3. 家の相続は基本的に嫡出長男相続制をとることで兄弟争いや家産の細分化を防ぐことで家自体の存続を保てるように規定したと思われる
明治政府が諸制度を通じて家父長に家の統制権を与えた理由 明治国家の中央集権の統制手段
明治政府の中央統制は天皇―政府―府県―区長―戸長―戸主という統制構造
戸主=家父長はその統制の末端的な存在として位置づけられた
このような統制は明治政府の目標である「富国強兵」の実現のため
地租改正と徴兵制の課題の解決は国民統制が必要となる III. 日本の家父長的家制度下の家族関係―戦前の農家を中心に
IV. 戦後日本の家父長的家制の変遷
けれども人々の心の中まで強く根付いたことや、社会的経済基盤は大きな変化のないこと、また保守勢力の働きかけで戦後は 「家制度」 の復活運動もみられた
家父長的家制度の本地である農村では 「家」 自体の存続が危うい状態に
家父長的家制度の土壌である農村を中心とした第一産業は高度経済成長期前の国の支柱産業から1965年以後はGDPに占める割合は10%以下に落ちたことから、農村自体が衰退した 農村の衰退に伴い、農家の次三男と娘達を中心とした若い労働人口は都市へ流れた
高度経済成長期の1955年から1970年まで、東京や名古屋、大阪の3大都市圏だけでその人口純移動は約750万人に
都市部への人口移動の中で、特に戦前家の存続に要らないと差別された農家の娘の都市への脱出は、家の存続のために農村に残した長男達が「嫁難」に落ちるハメになった
これはさらに若者全体が都市部への流出に繋がり、高齢化や過疎化へ
「家父長的家制」は都市部の家族で芽生えにくい状況
都市部では生活場と生産場が分離している
家業相続や家産維持を目的とした2世帯が必要ではない → 核家族化が進行
核家族の中では「平等と自由」思想の影響や「企業戦士」であるお父さんの「家不在」
長い歴史を通じて日本に根強く存在した「家父長的家制」は、今現在でもその名残が所々に潜む
例えば結婚式場で立てる看板はまだ「何々家と何々家の結婚式」と書いているが、これはまさに「家父長的家」の考えから来たもので、結婚は個人のことより家と家のことであるという思想が残されている象徴であると思う
現代の日本人が何とも思わない企業間の「親会社」と「子会社」の関係も戦前の「家父長的家制」の変形であり、「現代の家父長的家制」とも言える